2026年5月のアーカイブ
「学び直すこと」で見えてきたこと。
このたび、児童発達支援士の資格を取得しました。
とはいえ、「資格を取ったから終わり」という感覚はまったくなくて、
むしろ今は、そこから改めて学び始めている感覚の方が近いです。
そして、本を読んだり、資料を見たりしていると、これまで出会ってきた生徒さんたちの顔が、何人も思い浮かびます。
「あの時、もっと別の関わり方ができたかもしれない」
「頑張らせようとしていたけれど、結果的に無理をさせてしまっていた部分もあったのではないか」
そんなふうに、思い当たる過去の場面を振り返ることも少なくありません。
教える仕事をしていると、どうしても「前に進ませたい」という気持ちが強くなります。
でも、進むスピードだけが大事なのではなく、
「今、その子がどんな状態なのか」
「どこで苦しくなっているのか」
「本当は何に困っているのか」
そこに目を向けることの大切さを、改めて感じています。
一方で、今回学び直していて、少し安心したこともありました。
それは、自分がこれまで大切にしてきた
「簡単に答えを与えない」
「考える前に誘導しすぎない」
という方針です。
私は昔から、「とにかく早く解かせる」「パターンで覚えさせる」というやり方に、強い違和感がありました。
もちろん、ヒントを出すことはあります。
でも、こちらが欲しい答えへ無理に誘導したり、考える前に答えを急がせたりすることは、むしろ避けてきたつもりです。
時間がかかっても、自分で考えて、「あ、そういうことか」に辿り着くこと。
その経験そのものが、学びの土台になると思っているからです。
今回の勉強を通して、そうした関わり方は、決して間違った方向ではなかったのだと、改めて確認できた気がしています。
ただ、だからといって「自分のやり方が絶対に正しい」と思いたいわけではありません。
むしろ逆で、学べば学ぶほど、子どもによって感じ方も、苦しさも、必要な関わり方も違うのだと感じます。
以前よりも、「こうあるべき」に縛られず、柔軟に考えられる場面が増えていく気がします。
教える側が決めつけすぎないこと。
それもまた、大切な支援の一つなのかもしれません。
これからも、勉強を続けながら、「答えを急がせない学び」を大切にしていきたいと思っています。
ブログを更新しました。
基礎があっての応用。
英語を勉強していると、「意味はわかる。でも、なんだかおかしい」という違和感に出会うことが多々あります。

たとえば街中の看板でよく見るこの “Permit holders only” という表現。 英語を習い始めた頃の自分なら、「“Only” は前じゃないの?」と、“Only permit holders” の方が自然に感じていた気がします。
実際、文章として書くなら
Only permit holders may park.(許可証をお持ちの方のみ駐車できます。)
のように、 “only” を前に置く形は普通にあります。
でもこうOnly ~だと、何か後ろに文として続きそうな感じがしますね。
でも、看板になると話は別。
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Staff only
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Members only
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Employees only
なぜ、 “only” は後ろに回りたがるのでしょうか。
英語には「看板英語」というルールがある
ここで面白いのは、英語が「文章」から「表示」に変わる瞬間、独自のルールが発動することです。看板や広告の英語(Headlineseとも呼ばれます)では、「一瞬で伝えるための省略」が徹底されます。
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be動詞が消える
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冠詞(a, the)が消える
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名詞だけで完結させる
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後ろから短く限定する
例えば、こんな表現。
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Reservation required(予約が必要です)
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Tax included(税込)
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Children welcome(お子様連れ歓迎)
学校文法で見れば「主語と動詞はどこ?」と首を傾げたくなりますが、「表示」として見るとこれ以上なく機能的で、これが正解なんです。
英語は、(日本語もそうですよね)“どこで、誰に、どう見せるか” によって、都度形を変える言葉なのだと気づかされます。
だからこそ「基礎文法」が武器になる
とするとつい「実際の英語は教科書通りじゃないなら、文法なんていらない」……となりそうですが、実は逆です。 省略されたり、順番が入れ替わったりして“崩れた”英語を読み解くときこそ、文法が活きてきます。
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何が省略されているのか?
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only は何を修飾しているのか?
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元の「完全な文」はどういう形か?
この “骨組み” が透けて見えるようになると、初見の看板やキャッチコピーも一気に理解しやすくなります。
私にとって、文法は「暗記するべきルール」ではなく、「英語の崩し方すら楽しむための道具」です。 基礎という土台があるからこそ、街に溢れる生きた英語の“崩し(遊び)”に気づけるようになる。そう思うと、毎日の文法の勉強だってやりがいが生まれ少しだけ楽しくなりませんか。
先生そんなふうに思うんです。
※ちなみに下のTerms and Conditions apply.は「規約や条件があ当てはまります。」つまり、「適用には諸条件あります」的な意味。日本でも必ずこういった文言つきますよね。
ブログを更新しました。
「ドラえもんがやってる」をどう理解しているのか。
最近、発達障害や特性についての本を読みながら、「日本語って、実はかなり複雑な言語なんだな」と改めて感じています。
その本の中で語られていたのは、「言葉をどう処理するか」というプロセス。 読み進めるうちに、ふと一つの確信が芽生えました。
「いやいや日本語ってそもそも、ハードル高くない……すか?」
たとえば、こんな一文。
「私は彼にリンゴをあげた。」
英語なら、基本は “I gave him an apple.” です。 英語において「語順」は絶対的なルール。順番を入れ替えることは、基本的にはできません。
でも、日本語は違います。
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「私はリンゴを彼にあげた。」
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「リンゴを彼に、私はあげた。」
-
「彼にリンゴをあげたのよ、私は。」
多少のニュアンスこそ変われど、これらはすべて意味が通じます。 なぜなら、日本語には「てにをは(助詞)」があるから。「は・が・を・に」が、単語の役割をしっかり固定してくれる。だから、語順をかなり自由に動かせるのです。
日本語のすごさ(難しさ)は、これだけではありません。 私たちは、“言っていないこと”を驚くほど無意識に補完していますよね。
たとえば、授業でよく例に出すのですが、 「ドラえもんがやってる。」
この一言で、私たちは「テレビでアニメのドラえもんが放送されている」と理解します。 でも、文法通りに読めば「ドラえもんが、今、何かをしている」とも受け取れます。そこに「テレビ」や「映画」という言葉は一文字も入っていないのに、私たちは文脈から勝手に情報を付け足しているのです。
あるいは、これもよく出す例。 「パンケーキは太る。」
これも普通に通じますが、本来は「パンケーキ(もしくはそれを摂取すること)は、(人を)太らせる」という意味ですよね。
「誰が」「何を食べて」「誰が太るのか」。 主語も目的語も、かなりの部分が省略されている。それでも、私たちは当たり前のように会話を成立させています。
こうした「空気を読む」「文脈から察する」という日本語特有のコミュニケーションは、実はものすごく高度な情報処理なんです。
そして同時に、「この補完が、誰にとっても自然にできるわけではない」ということも、発達特性の学びの中で強く感じました。
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言葉をそのまま、額面通りに受け取る。
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曖昧な表現の意図を掴むのが難しい。
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省略されたピースを埋めるのに、膨大なエネルギーを使う。
これらは決して「能力が低い」わけではありません。 むしろ、日本語という言語側が、受け手に「察すること」を求めすぎているのではないか。 そう思えてならないのです。
だから英語を教えるときには、あえて言葉を「正確な形」に戻して考えることが大事だと思っています。
「ドラえもんがやってる」を「アニメのドラえもんが放送されている」と言い換える。 「パンケーキは太る」を「パンケーキを食べると人は太る」と構造化する。
普段の会話でこれをやるとだいぶぎこちない会話になりますが、この「要素を整理する意識」を持つと、実は英語の理解がぐっと楽になります。
なぜなら英語は、日本語以上に「誰が(主語)」「何を(目的語)」「どうした(動詞)」を、はっきりと言葉にする言語だからです。
英語が苦手な子を観察していると、単語力以前に、もともとの日本語の構造が曖昧なまま、ふわっと理解しているケースが少なくありません。
英語を学ぶことは、普段なんとなく使っている日本語を、丁寧に見直すこと。
「英語力は、国語力である」
最近の学びで「、そんなことを考えた先生でした。
ブログを更新しました。
「わからない」ことを誤魔化さない。
教える仕事をしていて、
私が一番避けたいと思っているのは、
「質問に答えられないこと」ではありません。
むしろ怖いのは、
“知っている範囲”に無理やりこじつけてしまうことです。
本当はまだ理解しきれていない問いなのに、
既に知っている理屈に当てはめて片付けてしまう。
あるいは、
「これは覚えておけばいいから」
と、暗記に逃げてしまう。
もちろん、
暗記が必要な場面はあります。
でも、
「理解できないこと」「理解させきれないこと」から目を逸らすための暗記になってしまうと、
学びが面白くなくなる気がしています。
だから私は、
“答えられないこと”そのものには、
あまり抵抗がありません。
「それ、面白い視点だね」
「ごめん今はまだ、うまく説明できない、少し時間ちょうだい」
そう言えることは、
むしろ教える側にとって大事なことだと思っています。
もちろん、その代わりその後の勉強は必死です。
正直、
教えれば教えるほど、
自分の理解の浅さや、
知識の穴にも気づきます。
子供達からの質問に成長させてもらっている場面も多くあります。
だから今でも、
普通に参考書を開きますし、
新しいことを学び続けています。
子どもたちも、
環境も、
時代も変わっていく。
教えるこちら側だけが、
昔の知識や感覚のままで止まってしまったら、
いつの間にか“教えること”が“押しつけ”になってしまう。
だからこそ、
教える側も、
変わり続けないといけないのだと思います。
「どんどん質問しなさい」
そう言える先生でいるために、
今日もまた勉強です。
・・・と言いつつ、息子とキャンプに来て、焚き火をぼけっと眺めています。

あ、あと犬と。
